| 「新宿の母」として見続けてきた40年 占いを始めた最初の4年は、銀座、渋谷、池袋、大宮、横浜、阿佐ケ谷、中野と各所を転々としてたの。でも、いろんな場所を見てきて、これから一番発展するのは、新宿だと思ったんですよね。当時は、駅も木造だったし、高いビルなんてなかった。今、丸井ファッション館がある場所は日活の映画館だったし、都電だって走っていて、今とは随分様子が違うのですが、力強い庶民の町という活気があったんですよね。 最初は西口で占っていて、今の場所に移ったのは、昭和33年4月1日。ちょうど、売春防止法が執行された日だったんです。だから、街には赤線からあぶれた女性たちがいっぱいいた。そんな時代だったから、生きるか死ぬかの切羽詰まった相談が多かったですね。普通の人だって食べるのに精一杯、生きていくのに精一杯だったんだから。そんな人達に、少しでも幸せになって欲しいと思って私も懸命に働きましたよ。鑑定料30円という時代、休みは月に1日、それも朝の8時から夜9時、10時まで食事も取らず、トイレにも行かずに立ちっぱなしでね。時には、家出少女を家に泊めたり、病院に連れて行ったりなんてこともしながら。そうやって仕事を始めて8年目くらいに、ある女性誌で「信頼できる占い師」として紹介されたの。それからですよ、『新宿の母』と呼ばれるようになったのは。東京は地方から出て来ている人が多いでしょう。私は田舎弁丸出しなもんだから、みんながお母さんに相談するように頼って来てくれる。だから”母“だろうって、出版社の人がつけてくれたのが始まりなんです。 でも、こうやって屋外で商売していると、いろんな怖い体験もありますよ。酔っ払いにからまれるなんてのは度々。昔はヤクザに「ショバ代よこせ」と凄まれたり、道路交通法違反でおまわりさんに事情徴収を受けたりしたこともありました。今は、道路を使ってないから、そういう心配はないけどね…。 昭和43年の新宿騒乱の時も仕事してて、電車が動かないから、当時住んでいた千駄ケ谷まで歩いて帰ったりもしましたね。そう言えば、あの頃は「子供が学生運動にのめり込んで家に帰ってこないんです」なんて相談も多かった。昭和46年のクリスマスツリー爆弾もすぐ目の前で起こったんです。あの事件で脚を無くしてしまったおまわりさんは「もうすぐ定年だから、そしたら順番待ちの列の交通整理をしてやる」といってくれていた、とっても仲がいい方だったんで、本当に驚きましたね。
占いの仕事、新宿の街が大好き 相談者は、80%くらいが若い女性。周りに相談できる大人がいないから、私のところへ来るという感じなんですよね。私は人生相談のおばさんなの。でも、占いというのは当て物じゃない。その人がどうしたら幸せになれるかをアドバイスしてあげることなんですよね。恋人と相性が悪くても、こうやればうまくいくよって。例えば、「失恋しちゃった」と相談に来た人には、「何よ、そんな男なんて。あなたは八白土星だから、3月になればいいことがあるよ」って言ってあげる。そしたら自分で努力する。その結果としていい人が現れるんです。よく”新宿の母は当たる“といわれるけど、そうじゃなくて自分で幸せを掴んでいるのよ。私は、そのための方向を示しているだけ。それが、”新宿の母“の役目だと思っています。「私は、みんなから若さをもらって、幸せを分けているのよ」というと若い子はみんな喜んでくれますよ。 でも、こんなに長く同じ場所で続けていられるのは、やっぱり新宿と相性がよかったんでしょうね。不思議なもので多少、具合いが悪くても仕事してると直るんですよ。休みの日でも、必ず新宿に出掛けるくらいこの街が好きなんです。新宿って、いいことも悪いことも集まってくる街なのね。だって日本で一番盛んな場所だから。銀座は高級って感じだけど、新宿は庶民の街でしょ。だから、新宿が元気に活気づけば、日本はどんどんいい方向へ進むと思うの。今は、どこも不況だけれど、こういう時代はハートで仕事をしないとダメ。ハートがあると、人が集まるんです。体の続く限り”新宿の母“も頑張るから、新宿も、もっともっと元気になって欲しいと思いますね。
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