夏目漱石終焉の地 【区指定史跡】
早稲田南町七番地 漱石公園内

夏目漱石終焉の地


 漱石は、明治三十八年(1905)一月から翌年四月にかけて『ホトトギス』に連載した「我が輩は猫である」によって文豪として名をはせるようになった。そして同四十年四月には十数年間にわたった教壇生活に別れをつげ、東京大阪朝日新聞に籍を置いて文芸的著述を専業とする身となった。本郷から早稲田南町七番地の借家に居を移したのはその年の九月二十九日のことである。

 ここで漱石は、明治四十一年一月一日から四月六日まで連載した「坑夫」をはじめ、「三四郎」、「それから」、「門」、「彼岸過迄」、「行人」、「心」、「道草」等の代表作を次々と朝日新聞に発表し、大正五年五月二十六日から連載をはじめた「明暗」執筆中の同年十二月九日、持病である胃潰瘍のため、五十歳で没した。なお、「明暗」は没後五日目の十二月十四日まで掲載されている。

 漱石は小説以外にも多くの小品・随筆・紀行類を朝日新聞に書いているが、それらの中には居住地(早稲田南町)を中心として新宿区を舞台としたものも少なくない。

 漱石の没後、大正七年に遺族は家を土地ごと購入して建てかえ、同年九年の猫(「我が輩は猫である」の主人公とした三毛猫)の十三回忌には、この猫をはじめとする犬・小鳥たちの供養塔を庭に建てた。夏目邸は昭和二十年五月二十五日の空襲で全焼し、今その跡には都営のアパートが建っていて昔をしのぶよすがもないが、ただ層塔形の猫の墓(漱石に「猫の墓」という随筆がある)だけは、同二十八年の漱石の命日に修復再建されて、文豪の終焉の地を後世に伝えることになった。漱石の名づけた漱石山房跡は現在、区立漱石公園となり、平成三年には富永直樹作の漱石の胸像が落成した。
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