余丁町で坪内逍遥と共に文芸協会を起こした文学者島村抱月が、松井須磨子らと芸術倶楽部を創立して進撃運動をおしすすめたのがこの地である。抱月は、母校早稲田大学文学部で、美学・英文学史・お欧州近世文芸史・文学概論など講ずるかたわら、東京日日新聞の月曜文壇を主宰していたが、明治三十九年一月から坪内逍遥の文芸協会の仕事を助けて幹事となり、演劇にも深くたずさわるようになった。大正二年四月には文芸協会幹事を辞し、九月に松井須磨子と芸術座を組織して、近代演劇運動に身を投じた。抱月の新劇運動の中心となる研究所が芸術倶楽部で、同四年に建てられた木像二階建ての研究所は、日本の演劇近代化の母体となった。同七年十一月五日、この建物の一室で抱月が病死すると(享年四十八歳)、それを悲しんだ須磨子は、二ヶ月後の翌年一月五日、同じ芸術倶楽部であと追い自殺をした。 |